2009年12月05日

「ブラインドネス」大解説〜「私には見えなくなる」の意味〜

今回は、公開からしばらく経ちましたので「ブラインドネス(Blindness)」を詳しく解説します。

日本では一般的・表向きには、極限下に置かれた人間たちの心理や行動や恐怖を描くパニックサスペンス、と紹介されます。

もちろんそういう観方もできるのですが、ここでは裏の意味というか、むしろこちらが本来の表の意味でのテーマとメッセージをお伝えします。

ネタバレを含みます。とはいってもネタバレ云々といった種類の作品でないことが本来の意味で「ブラインドネス(Blindness)」を堪能することにつながりますから、気にしなくてもOKです。

ではさっそくいってみましょう!


▼「ブラインドネス(Blindness)」
 監督:フェルナンド・メイレレス
 2008年/日本・ブラジル・カナダ/121分
 原作:ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』

B001OGSMPYブラインドネス スペシャル・エディション(初回限定生産2枚組) [DVD]
角川エンタテインメント 2009-04-03

by G-Tools


----ストーリー----
車を運転していた男が突然目がみえなくなる。眼科に行くが原因はわからず、彼に接触した人も次々に視界が真っ白になり目が見えなくなる。

原因も治療法も不明のこの奇病を発症した者は強制的に隔離病棟に収容される。

かつては精神病院だったというその収容所は軍に監視され、外に出ようとすれば発砲される。

恐怖と狂気、そして暴力が支配する収容所には、ただひとり目が見える女性が盲目を装って紛れ込んでいた。
------------------

収容所でただひとり目がみえるのは医者の妻。ほかに登場するキャラクターは医者、サングラスの娘、最初に失明した男、最初に失明した男の妻、黒い眼帯の老人、第三病棟の王など。

彼らには名前がありません。失明した人々が集められた収容所に連れてこられた人々は、まずは自己紹介をします。俺はタクシー運転手だとか、私はファイナンシャルプランナーだとか言うのですが、収容所ではそんなことはほとんど意味を持たなくなります。

目が見えなくなったことで、それまで気づきあげてきたものが全く意味を持たなくなるのです。どんな肩書きも意味を持ちません。

だから登場キャラクターに名前がないのです。

収容所に入れられる以前の日常で自分を支えていたものが、文字通りすべて消えてまうのです。肩書きだけではありません。家族と引きはなされて拠り所もなくなってしまうのです。


■神の国に入りやすいのはどんな人?

さて突然ですが、神の国に入りやすいのはどんな人でしょう。

難しいのは、富んでいる者です。

「富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」(マタイによる福音書第19章24節)


入りやすいのは、幼な子です。

「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」(マタイによる福音書第18章3節〜4節)


幼な子がもっとも神の国に入りやすいというのは「ナルニア国物語」で末っ子のルーシーだけがアスランの姿をみることができたことでお馴染みですね。

では「ブラインドネス」の収容所の人たちはどうでしょう。それまでの肩書きが意味を持たなくなり、身に着けていた貴金属や貴重品も手放さなければならなくなります。

なぜなら銃を持っている第三病棟の王を名乗る男が、配給される食糧を独占し、金品と交換してやると宣言したからです。

現世という名の収容所の外で得た富をすべて失った人たちは、掃除もできずに物を散らかし放題で、洗濯もまともにできずに不潔な服を着のみ着のまま同然です。

なかにはどうせみんな目が見えないからと、裸で過ごす人もいます。

唯一目が見える医者の妻は、献身的に夫の世話を続けます。しかし夫は身の回りのことをすべて妻にしてもらわなくてはならない自身を受け入ることができずに苦悩し、時に妻を遠ざけようとします。

彼らはまるで手のかかる幼な子のようなものです。

富をすべて失って幼な子のようになった収容所の人々は、神の国に入りやすくなったはずです。

しかし、彼らはほんとうの幼な子ではありません。それゆえに収容所内では恐怖と狂気と暴力が支配します。

銃を持っている第三病棟の王は、金品を集め終わると次は女を要求します。


■なぜ目が見える医者の妻は「力」を使おうとしないのか

このあたりで、いやそれ以前にも観客はこう思うでしょう。

唯一目が見える医者の妻(ジュリアン・ムーア)は、なぜ第三病棟の王の銃を奪うなり、文字通り闇討ちするなりして食糧を奪わないのか? 

いくら女性とはいえ、目が見える彼女は収容所内では圧倒的な力を持っています。やろうとおもえば収容所を力で征服して絶対的な「王」として君臨できるはずです。

しかし医者の妻は第三病棟の王が女を要求したときでさえ、暴力で解決を図ろうとはしません。

第三病棟に行く決心をした女性たちの先頭に立って自らも向かいます。

そもそも医者の妻がはじめら自分が収容所の王になってすき放題やろうとおもっていたなら、目が見えることを隠してはいないはずです。

目が見えることを知らしめれば、だれだって彼女に従うでしょう。

しかし医者の妻は夫だけでなく、周囲の人々にそっと手を差し伸べて助け、勇気づけます。

差し伸ばした手を振り払うかのように脅迫してくる者がいても、医者の妻は献身的に夫に、そして周囲の人々に手を差し伸べつづけます。もちろん、自分が目が見えることは伏せたままですが、できるかぎりの助けの手を差し伸べつづけるのです。

暴力に暴力で立ち向かうとどうなるか。それを医者の妻はよく知っていました。医者の妻は戦争を回避したかったのです。

このように医者の妻はたいへん特徴的かつ象徴的なキャラクターです。

ここで思い浮かぶのが非暴力運動を推進したインド独立の父マハトマ・ガンディーです。

ガンディーは「"目には目を"は全世界を盲目にしているのだ」と語っています。そして非暴力運動において一番重要なことは「自己の内の臆病や不安を乗り越えることである」と主張します。

そうすることで「真理」を探求する。「真理は神である」とも。

収容所内の目が見えなくなった者たちが暴力に対して暴力で応じれば、盲目のまま。

だから医者の妻は圧倒的な「力」を持っていながら暴力に応じようとせず、献身的にみんなの世話をしながら、苦難には自ら先頭に立って立ち向かうのです。

医者の妻がみんなの手を持ち、先頭に立って収容所内を移動するシーンが度々ありますが、それは彼女が目が見えるからという理由だけではありません。

医者の妻はみんなには自分が目が見えることは秘密にしています。自分は収容所にやってきたのが最も早いメンバーのひとりだからよく内部を知っているということで、みんなの先頭に立つのです。

これって、たとえ目が見えているからといってだれでもできることではありません。

目が見ていることを隠しているなら、なにもわざわざそんなことをせずとも、自分のためだけにその圧倒的な「力」を使おうと思うのがふつうの人間だからです。

そもそも医者の妻は夫が失明してそれが伝染するものだと知っても、夫から離れようとはせずに、目が見えないフリまでして共に収容所に入ります。

ふつうだったら、目が見えなくなる奇病が伝染すると知ったら、とりあえず距離をおくでしょう。

でも医者に妻ははじまめから躊躇することなく、自身の損得抜きに愛を捧げるのです。

これはカトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」の創立者で、貧しい人々のための活動で知られるマザー・テレサを思い起こさせます。

マザー・テレサの活動は見返りを求めない愛によって行われます。つまりこれは「アガペー(無限の愛・無償の愛)」です。

そもそもアガペーは神の人間に対する「愛」をあらわします。神が人間をアガペーの愛で愛するように、人間同士もアガペーの愛で愛し合うようにというのが聖書の教えなのです。

ということは、医者の妻が象徴する、もうひとりは誰かはもうおわかりいただけたとおもいます。

迷える子羊を探してみつける、イエス・キリストを象徴しているのは明白ですね。

だから医者の妻だけ目が見えるのです。これはキリスト教文化が根底にある作品だと推測できれば謎でもなんでもありません。前提要素としてむしろあたりまえの設定なのです。

これは「アイ・アム・レジェンド」の主人公ロバートがウィルスの発生源のNYにいたにもかかわらず、自分だけウィルスに免疫があって生き残った理由と同じです。謎でもなんでもないのです。


■医者の妻が収容所で泣いた理由(わけ)とは

象徴しているといっても医者の妻はふつうの人間です。医者の妻ですから大きな家に住んでいてお金もたくさん持っているでしょうが、いわゆる主婦かもしれません。

目が見える以外は特別な能力や技術を持たないごく普通の人だと推測できます。

そんな医者の妻は収容所で泣きます。夫が心配して「お前も見えなくなったのか?」と尋ねると、妻は「自分の腕時計のネジを巻き忘れた」と答えます。

普段私たちは時計を見て行動するのがあたりまえとなっていることからもわかるとおり、時計は歩むべき道を暗示します。ですから、指針を失った人間はただ漂流するしかありません。

それはまるで迷子になった子羊のようなものです。

医者の妻は収容所で自分の目が見えなくなるのではないかとおそれていたのでしょうか。

いいえ。医者の妻はいなくなった迷子の子羊を探す使命を負った自分が、いつしかその子羊と同じように迷子になりつつあることをおそれていたのです。

だから自分の腕時計のネジを巻き忘れたことに涙したのです。

医者の妻は自分だけが目が見えることの意味と使命を認識しつつあったのです。

これは「アイ・アム・レジェンド」の主人公ロバートがウィルスの発生源のNYにいたにもかかわらず、自分だけウィルスに免疫があって生き残ったことで「使命」を確信したことと同じでしょう。

▼「アイ・アム・レジェンド」をキリスト教文化・聖書で読み解く

だからこそ医者の妻ははじめら「一切を捨て」夫に付き添って収容所にやってきたのです。これは自己犠牲の精神がなくてはできないことです。

「自己犠牲」――これも「アガペーの愛」とならんでキリスト教文化が織り込まれた映画に必ずといっていいほどみられるキーワードですね。


■日本で「ブラインドネス」が不評をかう要因

さて「ブライドネス」の日本での評価の中には、ウィルスまん延の謎がまったく解明されないからワケがわからないままだ、というものがありました。

これは「ブラインドネス」がキリスト教文化の素養と理解が少なからず必要な作品だと日本ではほとんど知らされていないことが原因です。

では、作品中のどこにキリスト教文化のヒントがあるかをお知らせしましょう。ヒントというか、そのままですが……。

いちばんわかりやすいのは収容所から脱出した後、仲間のために食糧を調達した医者の妻が突然降ってきた雨を避けるように一時的に教会に入るところです。

洗濯物干しのロープみたいなものをくぐる動作によって頭を低くして、まるで一礼するかのように静かに講堂に入る医者の妻。

このとき説教の声が聞こえます。説教者は「神は隠れている、我々を罰していると叫ぶ人がいるがそうではない」という内容の話をしています。

神は隠れているようにおもえても、そうではなく我々が見ようとしてしていないのだというのは「ナルニア国物語/第2章:カスピアン王子の角笛」でも重要なメッセージでしたね。

▼アスランは姿を消したのではない 
 〜信仰〜見ないで信じる者はさいわいである


ナルニアからアスランが姿を消して数百年。ナルニアの民はアスランが姿を消したと思っていた。けれどもアスランは姿を消したわけではなかったという話です。

「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」(ヨハネによる福音書第20章29節)


見ないで信ずることができるためには「信仰」をもっていなければなりません。

「信仰」とはここではガンジーが探求した「真理」といってもいいでしょうし「生きるための拠りどころ」といってもいいでしょう。

そういった「信仰」は目が見えているときは持ちにくい。だから神は隠ているのではなく、見えているとおもっている人々が見ようとしていないだけであり、見えなくなってはじめて「見える」ことを「ブラインドネス」での教会の説教者は続けてパウロの話で伝えようとします。

本誌でも幾度かご紹介していますが、おさらいしておきましょう。

-------------------------------------------
「パウロの回心」(新約聖書使徒行伝第9章)

パリサイ人でローマ市民権を持ち、高水準の教育を受けたサウロ(パウロ)はある日、イエスの弟子たちを捕らえるために、ダマスコへ出発しました。

(聖書におけるパリサイ人は、律法学者、宗教の理論的な指導者として高い地位にあるとされていた人々です)

その道の途中で、突然、天から光がさしてサウロをめぐり照らしました。地に倒れたサウロは天からの声をききました。起き上がって目を開いてみましたが、何も見えませんでした。

サウロは天の声のとおりにダマスコの町へ行き、そこで3日間、目が見えず、飲まことも食べることもしませんでした。

やがてサウロのもとにイエスの弟子アナニヤがやってきました。アナニヤは自分たちを迫害してきたリーダーであるサウロの肩に手をのせて、「兄弟サウロよ」と語りかけはじめました。するとサウロの目から魚のうろこのようなものが落ち、もう一度みえるようになりました。

サウロは洗礼を受け、主に異邦人にイエスのことを伝える伝道者になりました。
--------------------------------------

「目からウロコが落ちる」の語源になったことで有名な話ですが、このパウロの回心の話のシーンがあるとういことは、こういう解釈をしてちょうだいね、というわかりやすいヒントを与えてくれているということですね。

パウロの回心の話を知っていれば「ブラインドネス」でウィルスがどうしてまん延したのか、その謎解きがないからわかわかんない、とはなりません。

つまり、観客に謎解きをさせるような種類の作品ではないのです。

それに、天変地異のCG三昧で映像大スペクタクルを売りにするような種類の作品でもありません。

そもそもCG三昧の映像大スペクタクルがなくても「終末」を描くことはできます。それを「ブラインドネス」ははっきりと教えてくれます。


■黒い眼帯の老人とラジオ

収容所には黒い眼帯をした老人がいます。片目に黒い眼帯をしているということは、以前は「片目は見えていた」と考えられます。

これは「半分は見えていた」ことを意味します。ここでいう「見えていたもの」とは、なんといったらいいでしょう。そうですね「真理」ともいえるでしょう。

目が見えなくなって「見えた真理」を、黒い眼帯をした老人は奇病が発症する以前から半分はみえていたのです。

半分は「闇=現世=悪」を見て、半分は「光=神の国=善」をみていた。だから「黒い」眼帯の老人なのです。黒い眼帯で覆われて見えいなかっ悪のかわりに、老人は善をみていたのです。そうでなかったら白い眼帯でもいいわけですから。

そんな黒い眼帯の老人はラジオを持っています。ここで、キリスト教文化がみてとれる作品によく登場する小道具はラジオやテープだだというのを思い出してください。

ラジオやテープは「音声=ことば」を届けるものです。

そういえば「ターミネーター4(TERMINATOR SALVATION)」でもジョン・コナーもラジオや無線を通して「ことば」を伝えつづけていましたね。

▼「ターミネーター4」とキリスト教文化

さて、目が見えるときはラジオに耳を傾けることはあまりなく、大事な「ことば」を聞くことができませんでした。

しかし目が見えなくなって集められた収容所内では、半分だけ見えていた、半分だけことばを聞けていた老人が持つラジオの音声に、人々は耳を傾け、またそこから流れる音楽に静かに聞き入ります。

これは、見えなくなったことで「真理のことば」に耳を傾けるようになり、逆に「見えて」くることを暗示させるシーンとなっています。

ちなみに収容所にはテレビもあるのですが、テレビからは奇病がまん延しているニュースが流れたりして、気を荒立てた者が投げつけた物で画面が破壊されます。

テレビは従来の「真理が見えていない状況」の象徴なので、このように破壊されてしまったのです。


■亡くなった女を清める水、雨、そして水浴び

水が象徴するものはなんでしょう。

それは「生まれ変わり」です。キリスト教では全身もしくは身体の一部を水に浸し、新たに生まれ変わった信仰者とする洗礼の儀式を行います。

「ブラインドネス」では節目で水を浴びるシーンがあります。

第三病棟の男たちに殺された女性の身体を、医者の妻をはじめとする数人の女性たちが水を浸した布で拭うシーン。

収容所から脱出した医者の妻とその仲間たちが天からの雨に笑顔で打たれ、お互いに抱き合い、喜びを表現するシーン。

医者の妻とその一行が家にたどり着き、固い絆で結ばれた仲間たちとの共同生活がはじまり、医者の妻をはじめとする女性3人が水浴びをするシーン。

女性の死。収容所からの脱出。新しい生活。「新たな生」の節目で名もなき登場人物たちは「水」を浴びます。

ちなみに黒い眼帯の老人も女性にお湯を掛けてもらうシーンがあります。このとき女性は「あの子の親をみつけてあげたいわ」という意味のことをいいます。

あの子とは一緒に収容所を奪取して行動を共にしてきた少年のことですが、彼をわたしたちととらえると、迷える子羊に良き羊飼いを見つけてあげたいという願いにも受け取れます。

これは迷える人類を神のもとへ連れ戻すというテーマをあらわすセリフですね。


■死体をむさぼらない犬

収容所から脱出して後、行動を共にするようになった仲間のために食料を調達して帰る途中の路上。ひとりで座って夫を待っている医者の妻。

道路を挟んだ向かいの階段で数頭の犬が男性の遺体をむさぼり食べています。それをみつめる医者の妻の傍らには食料をつめたビニール袋があります。

すると遺体をむさぼり食う犬たちには目もくれずに、一頭の犬が医者の妻のほうへ歩いてきます。毛むくじゃらの犬ですが、かなり大きな犬です。襲われたら命だって危険にさらされるでしょう。まして食料が詰った袋は医者の妻の傍らにあります。

ふつうだったら、そんなデッカイ犬がやってきたら、状況が状況ですから身構えるでしょう。顔を近づけてきたら噛み付かれるんじゃないかと身構えて当然です。

ところが医者の妻は身構えません。やってきたその犬は医者の妻の顔をベロベロ舐めはじめます。医者の妻もそれに応えて撫でてやり、犬にキスします。

すぐに雨が降ってきて、医者の妻は食料の入った袋を両手に教会の中へ。その後を犬が付いて、同じく教会に入っていきます。

犬はたいてい主人を欲します。人間と犬との関係でいえば、ふつうは人間が主人です。

死体とはいえ主人を象徴する人間をむさぼり食う犬たちは、主従の関係を忘れた者を象徴します。

主人を忘れた犬たちに目もくれず、人間(医者の妻)に寄り添って愛を表現した犬は、撫でられたりキスしてもらったりして愛を受け取り、教会に入っていきます。

迷える子羊が羊飼いをみつけ、本来あるべき場所(教会)へ帰っていくことを示すこのシーンはたいへん象徴的ですね。

これがきっかけでこの犬は医者の妻たちと一緒に暮らすようになります。


■12人と7人

収容所内でいよいよ第三病棟の王の部下たちに立ち向かう決心をした者たちが立ち上がったときのことです。

彼らは見えませんからお互いに「おれたちは何人いる?」と尋ね合います。

このとき医者の妻が「私には12人いるのが見える」と発言し、自分は目が見えることを告白します。

そして医者の妻はこの12人の先頭に立って第三病棟の男たち(悪)に立ち向かいます。

ところがそのころ第3病棟は炎に包まれています。それはまるでソドムとゴモラが天からの火で焼き尽くされたかのようでもあります。

こうしてソドムとゴモラのような収容所から医者の妻たちは脱出することになるのですが、ここでは12人という数字と、その12人の先頭に立ったのが医者の妻だというのが重要です。

また、収容所から脱出した医者の妻の仲間たちの数は7人です。医者の妻を除した数が7人なのです。

ここでも7人の先頭に立って街を歩き、医者の妻の自宅までみんなを誘導します。

12や7という数字はキリスト教では特別な数字です。

12人の弟子。神は天地創造で7日目を安息日とされた。ヨハネが7つの教会へ送ったメッセージという形式をとるヨハネの黙示録など。

そういった数字も当然のようにしっかりと守られているのがわかります。


■君が見える

医者の妻の家にかえってきて新たな生活をはじめます。医者の妻を抱く夫は、彼女の顔を手で触り「君が見える」といいます。

目が見えなくなっても「君が(大事なもの)が見える」ようになったというのです。このセリフのときは愛の営みの真っ最中です。まさに愛に包まれて大事なものをみつけた瞬間ですね。


■ラストシーンのナレーションと「私には見えなくなる」の意味

物語のラスト。家の中で写真を撮っています。これは、今は目が見えないけれども、いつかはまた見えるようになる希望を持っていることを表します。

そして朝のコーヒーを飲もうと、最初に失明した男(伊勢谷友介)がため息混じりに「目を覚まさなきゃ」とつぶやきます。

するとどうでしょう。カップに注がれたコーヒーが見えるようになり、日本語で「全部見える」と言い「I can see you!」「Everything is beautiful!」とも。

みんなが喜び合うなか、ナレーションが流れます。このナレーションはまさにナレーションでなければできないものです。

ナレーションのほんとうの使い方をこれほど強烈かつ鮮烈に使われた例をほかに知りません。

そしていよいよほんとうのラストのナレーションでの「彼女は思った。私には見えなくなる」で鳥肌が立つ人が続出することでしょう。

おそらくある人は最初に失明した男が視力を取り戻したことから、順番に目が見えなくなって、同じく順番に視力を取り戻していくと考えることから、最後まで目が見えていた医者の妻が今度は目が見えなくなると考えるかもしれません。

しかしそうではないでしょう。ナレーションで丁寧に説明されているとおり、最初に失明した男が視力を取り戻したことで医者の妻は「おそれ」を感じました。

その「おそれ」は「blind:おおい隠すもの」によって見えなくなるのではないかというおそれです。それは、視力そのものを指すかのようにみせて、実は「使命」を見失うおそれを意味しています

平凡な主婦でふつうの人であった医者の妻が、目が見えなく伝染病によって見い出した「使命」が失われるのではないか。

かつては腕時計のネジを巻き忘れることで象徴された「使命」が、もう腕時計に頼らなくても大丈夫だと思えた矢先、最初に失明した男が視力を取り戻した。

みんなが視力を取り戻したら、自分は「使命」を失って迷える子羊にもどってしまうのではないかというおそれを抱いたのです。

だから医者の妻は思ったのです。「私には見えなくなる」――と。

このナレーションの声はおそらく黒い眼帯の老人でしょう。最初に失明した男が視力を取り戻して皆が喜ぶ合うなか、黒い眼帯の老人だけがひとり、部屋の隅のソファに腰掛けてその様子を静かに見つめています。

その横をそっと過ぎ去ってバルコニーに立つ医者の妻。

カメラは彼女が見上げる真っ白な空を映し(医者の妻の主観ショット)、「彼女は思った。私には見えなくなる」とナレーション。

そしてすぐに医者の妻が空から視線を下ろしていく様子を映し、続けて再び彼女の主観ショットになります。

カメラは真っ白な空からダウンさせて公園とその先のビル群(街)を映し出します。

このカメラワークが伝えることは、医者の妻の視力は失われるわけではないということです。

「私には見えなくなる」の意味は、視力のことではなく、わたしには「生きるべき道=指針=使命=真理」がみえなくなるとおそれたことをはっきりと示しています。

このラストシーンには、ふつうでは考えられないぐらいの巧さと深さがありますね。だから鳥肌が立つ人が続出するはずなのです。


■その他

映画を観ている観客にむかって、あなたはほんとうにこの作品が見えているか? を問いかけるかのようなシャレも感じさせるこの作品のあらゆるシーンとセリフにちゃんと意味があります。その意味がひじょうに深くてわかりやすい。

役者もいい。特にジュリアン・ムーアはこういう作品にピッタリですね。

これはほんとうに凄い作品です。

このスゴさは、残念ながら日本では伝わりづらいかもしれません。だから公開からしばらく経ったこともあり、かなり詳しく解説しました。

日本人キャストの伊勢谷友介と木村佳乃も、作品の雰囲気に馴染んだいい演技をしています。日本語も英語もとても自然なかんじです。

こういう作品はひとりでじっくり観るほうがいいでしょう。

第61回カンヌ国際映画祭オープニング作品選出、コンペティション部門出品の意味がきっとわかるはずです。

夜長の季節、ぜひご覧になってみてくださいね。


---------------------


「ブラインドネス(Blindness)」は日本では特に、観る人を選ぶ作品といえるかもしれません。

「ブラインドネス」や「アイ・アム・レジェンド」や「トゥモロー・ワールド」といったような作品のジャンルが日本には無い、または無いとされているかのような状況が、作品を堪能する機会を奪ってしまっているのかもしれません。

映画をほんとうに楽しめる人は、他人が作ったジャンル分けなんてアテにしません。

アテにしないからこそ、作品本来の味を自らの舌で堪能できるのです。

おいしい料理を出す店を紹介することは私にもできます。でも、料理を味わうのはアナタです。



さらに詳しい解説はこちら!

↓ ↓ ↓

▼「ブラインドネス」の謎を解く〜なぜ医者の妻だけ目が見えるのか?〜
・なぜ医者の妻だけ目が見えるのか?
・なぜ医者の妻は第三病棟の王を殺害したのか?
・なぜスーパーマーケットで医者の妻は食料を欲する人々に自分が持っている食べ物を分けてやらないのか?
・なぜ「ブラインドネス」の評価はかなりばらつくのか〜作品のテーマは「おそれ」〜
・黒い眼帯の老人は何者なのか?

×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。