2009年01月04日
ポニョのミステリー「宗介はなぜ大人びているか」
「崖の上のポニョ」謎だらけの迷宮を脱出せよ!
〜宮崎駿監督が払拭したがるキリスト教色とは?〜
▼ポニョのミステリー【宗介はなぜ大人びているのか】
帰宅予定だった夫・耕一が家に帰れなくったことにふてくされる妻・リサ。
そんな母親のかわりに信号灯によるモールス信号を使って航行中の貨物船に乗っている父親とコンタクトをとる宗介は5歳ですが、妙に大人びています。
モールス信号で父親と交信するのも、自分のためというより、母のリサを気遣って、夫婦間のとりなしをしているかのようです。
母親のリサは☆ルンルン☆気分で料理していたかとおもうと、愛する人(夫の耕一)が帰宅できないと知るなり不貞寝してみたり、大雨が降って皆が避難しているなかをリサ・カーと呼ばれる軽自動車で海沿いのカーブが多い道を猛スピードで走るといった無茶な行動をしてみたりします。
こしてみると宗介が大人で、リサが子どものようにみえます。
子どものようなリサはわるい子かというと、そうでもありません。
たしかにすぐにふてくされたり、後先考えずに飛び出して行ったりと無茶なところがあります。
でもそういうところは、子どもにはよくあることで、むしろどこにでもいる元気な子どもの典型とみることができます。
5歳の息子だっている25歳の女性リサ。彼女は大人のようでありながら子どもなのです。
ほら、宗介は母親のことを何と呼んでいますか?
ママ? おかあさん? 母上? おかん?
いえそうではありませんね。母親のことを「リサ」と呼んでいますね。
それはあたかも親が子を呼んでいるかのようです。
人は見た目が8割、いや9割? そんなふうに言う人もいますが、聖書では、人はその人の外見をみるが神はその人の内面をみる、といったような言葉があります。
見た目は大人で内面は子どものリサは、いったいだれを象徴しているのでしょうか。
リサは――「私たち」なのです。
パッと見は大人。でも、神からみれば私たちは子供であり、迷える子羊なのです。
子ども=リサがふてくされたとき、リサにとっての夫であり、宗介にとっての父親との「とりなし」をしてくれるのは「宗介」です。
宗助は5歳。生後1年から小学校就学前までの子どもを幼児といいますから、5歳の宗介は幼児です。
外見は幼児ですが、弱く迷える子羊と父なる神との「とりなし」をするのは、宗介なのです。
では宗介は誰を象徴しているのでしょうか?
その謎を解くヒントは映画の題名にあります。
題名は「崖の上のポニョ」ですが、崖の上の家に住んでいるのは宗介でです。
崖はたいてい固い岩で出来ていますね。
キリスト教で「岩」といえばイエス・キリストを象徴します。
聖書には「岩の上に家を建てた賢い者」というたとえ話があります。
簡略にいうならば、岩のように大きくてしっかりした揺ぎないものの上に家を建てればよい、という教えです。
つまり「岩=イエス(神)」と共にあって生きなさい、ということになります。
崖の上(岩の上)の家に住んでいる宗介は「リサ=子ども=私たち」と「耕一=父親=父なる神」との間の「とりなし」をします。
とりなしをするといえば、キリスト教では人類の罪の身代わりになって十字架に架かったイエス・キリストですね。
大人びているといえば、イエスの少年時代にこんなエピソードがあります。
12歳のイエスは、ユダヤ人の重要な祭である「過越祭」の慣習に従って、両親と一緒にエルサレムの都に上りました。
祭が終わって帰途についたとき、両親は巡礼の群れのなかにイエスがいるだろうとおもっていましたが、親類や知人の間を探し回ってもみつかりません。
そこで両親がエルサレムに引き返すと、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座って話を聞いたり質問したりしていました。
その場にいた大人たちは皆、イエスの賢さに驚いていたのですが、もっと驚いたのは両親です。
なぜこんなことをしてくれたのです。父も私も心配して探していたのよ、と母マリヤがいうと、イエスはいわれました。
「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(ルカによる福音書2章48節)
両親にはイエスの言葉の意味がわかりませんでした。
12歳といえば当時のユダヤでは大人の部類に入るとされる年頃ですが、とはいっても年若い少年が神殿で学者たちと話していたことだけでもすごいのに、その場にいた者が皆イエスの受け答えに驚いたのです。
さらに、イエスの言葉は12歳のイエスは神が特別な意味での自分の父であることをすでに知っていたことを意味しますが、両親にはイエスの言葉の意味がわからなかったのです。
学者が驚き、両親さえ理解できない言葉を話すイエス。
大人びているという表現だけでは言い尽くせないイエスの少年時代のエピソードですね。
今回は、宗介は「とりなし」をする重要なキャラクターであるということをお話しました。
宗介は見た目は5歳の幼児なのに、母親をミサと呼んだり、妙に大人びていたりすることに少なからず頷けたのではないでしょうか。
ちなみにリサが不貞寝しているにもかかわらず、そのリサのために信号灯によるモールス信号を使って父親・耕一とコンタクトをとるシーンは、ゲッセマネの園で父なる神に祈るイエス・キリストを彷彿とさせます。
このときも、イエスの弟子たちはすぐ近くで寝てしまっていました。
寝てしまっている弟子たち=私たち(人類)のために、父なる神に祈るイエス。
信号灯によるモールス信号を使うシーンは何気ないようですが、こうしてみると宗介というキャラクターが誰を象徴しているかがわかりやすく解釈できるでしょう。
▼【ほんとはおそろしい「崖の上のポニョ」】
宮崎駿が「死」を強く意識しているであろうことは「崖の上のポニョ」に顕著に表れている。「崖の上のポニョ」は「死」と「週末=この世の終わり」のモチーフがこれでもかというほど込められた、ちょっと重ぉ〜い作品。
▼「崖の上のポニョ」
「まんまキリスト教の影響受けまくりのド真ん中直球勝負作」「オトン涙!不良家出娘の嫁入り珍道記」キリスト教色をカラフルにベタ塗りか? 日本の事情(?)を考慮して関係各所に配慮すると共に、観客にはしっかりと「その旨(キリスト教の影響)」を伝えることにした? そのたりの布石の打ち方はさすが「年の功とスタジオジブリ」。ひとつ違えば超ホラー。鳥肌ものの鳥足が生えた、しゃべる肉食人面魚がどこまでも追いかけてくるぅ、きっとくるぅ!(>_<)




