2008年07月13日

「アイ・アム・レジェンド」をキリスト教文化・聖書で読み解く

「アイ・アム・レジェンド」をキリスト教文化・聖書で読み解く

≪〜主人公の一見すると不可解に思える反応のワケ〜≫

●「だれも生き残っていない」のほんとうの意味とは。アブラハムとイサク。イエス・キリストの十字架。ユダの裏切り。荒野の誘惑。

主人公の科学者ロバート・ネビルの、一見すると不可解に思える反応について詳しくお話しよう。

作品中で、田舎の村に生存者が集まって生活しているかもしれないという情報を得たときのロバートのリアクションが意味不明に感じた人も多いという。

ロバートは毎日、すべてのラジオ放送周波数からメッセージを流している。生存者がいたら食糧と安全を保障しようという内容のものだ。

自分は毎日昼間の決まった時間に決まった場所(埠頭)にいるから、この放送を聞いた生存者はそこに来てくれとラジオを通して呼びかけつづけている。

それにもかかわらずだ。

それにもかかわらず、ロバートは実際に生存者に出会って(ネタバレっス)、田舎の村に生存者が集まって生活しているかもしれないという情報を教えてもらっても、せっかくの料理を台無しにして思わず相手が身の危険を感じる程までに、人類はほかにだれも生き残っていないと何度も頑なに言い放つロバートであった。

あんなに生存者を心待ちにしていたのに、なんでそんなに頑なに? 

その謎に思えるリアクションのワケがわからないと、ワケわからなくなってしまうワケである(←ダジャレ?)。


■ ふたつの意味

まずは「人類はだれも生き残っていない」の意味について考えてみよう。

この言葉には、ふたつの意味がある。

ひとつは、ロバートの愛する家族が亡くなってしまったことを指す。

人は自分と自分をとりまく人々ともう会えない状況になると、たとえ他にたくさんの人々がいたとしても「自分と自分を取り巻く世界」が無くなってしまったように感じることがある。

自分を取り巻く世界の住人の中でも、最も大事でかけがえなのないもの。それは家族である。

愛する家族を失ったロバートは、自分と自分を取り巻く世界の中心=家族=人類はだれも生き残っていないと言っているのだ。

もうひとつは、人類は人類でも、善なる人類はだれも生き残っていないということを指す。

気をつけてもらいたいのは、紫外線に極端に弱いダーク・シーカーズ以外の、生き残りが善なる人間という意味ではないところだ。

たとえウィルスに感染していない人間(生き残り)がいたとしても、それが善なる人間ではない。

性善説や性悪説というとわかりやすいかもしれないが、聖書によるとエデンの園でアダムとイヴが善悪を知る木の実をとって食べたそのときから、人類は労働と産みの苦しみと死から逃れることができない罪深い人間となった。

つまり、エデンの園をアダムとイヴが追放されたそのときから、人類は罪に染まった悪人ととらえることができる。すると、人は生まれながらにして罪深い生き物ということになる。


■ 人類が救われる方法

そんな罪深い人間が救われる方法はないのか。

ひとつだけある。

それは犠牲を捧げること。

旧約聖書には祭壇で羊を神に捧げる話がよく登場する。羊を、罪を購う犠牲として捧げたのである。

そんななかでも、犠牲を捧げる有名な話がこれだ。

アブラハムは息子のイサクをとてもかわいがった。ところがある日、神はアブラハムに息子のイサクを遠くに山に連れて行き、私に犠牲として捧げるよういった。

アブラハムは山の頂で祭壇をつくり、イサクをそこにのせると、ナイフを手にとり突き刺さそうとした。

その瞬間、その子を傷つけてはいけないという神の声がした。

これは神がアブラハムに、彼の信仰が本物かどうかの試練を与えたという話である。

愛するわが子を犠牲に捧げなくてはならないアブラハムは、山への道中はどんなに辛かったろう。

イサクは助かった。しかし子なるイエスを人類の罪のために地上に遣わして犠牲にした神の愛は、はかりようもなく深いことがアブラハムとイサクのエピソードからも想像できるだろう。

さて、罪の赦しを得るために犠牲を捧げるといった、旧約聖書の時代に行われていたのは、主に羊を犠牲として捧げるというものだった。

これは、あるときから必要がなくなる。

あるときとは、イエス・キリストの十字架である。

イエスが人類の罪のために十字架にかけられたことによって、人類が救われる道が開けたのだ。


■ 絶望の暗闇に一筋の光

エデンの園をアダムとイヴが追放されたそのときから、人類は深い絶望の中にあった。

だが、一筋に光が射し込んだ。

光とは、人類の罪を購うために子を地上に使わすという神の言葉だ。

絶望の中にある唯一の希望。

それが人類を救う使命を持ったイエス・キリストなのである。

だからキリスト教ではイエスの誕生を祝うのだ。

というわけで、夜景の綺麗なレストランやホテルでカップルがイチャつくのがクリスマスだと思わされてきたのは、ごく一部なのだ。

米国では多くの人がホリディシーズンは家族で過ごす。もしもホリディシーズンに彼の家族の家に招待されたら、それは家族も同然ということ。婚約間近かそれに近い、将来家族の一員になってほしい相手だと思われていると思っていいだろう。

映画「幸せのポートレート(the family stone)」は、クリスマス休暇に彼の家の招待されたキャリアウーマンの話で、ファミリードラマとして性別問わず楽しめるようになっている。

ほかに女性向け作品では「ホリディ」もまさにこのシーズンの話だ。


■ だれも生き残っていない、のほんとうの意味

さて、イエスが地上に遣わされた使命は人類を罪の淵から救うこと。イエスの時代にも地上には人間はたくさんいたが、罪に染まっている人間しかいなかった。

エデンの園で生活していたアダムとイヴのような人間はひとりもいない。皆、エデンの園を追放されたあとの人間たちだ。

では、ロバートをイエスだとしてみよう。

ロバートが、人類(善なる人間)は(エデンの園追放以来)ほかにだれも生き残っていない、と何度も頑なに言い放った意味がご理解いただけたと思う。

ロバートは自分が人類を救うワクチンを開発しなければならないという強い使命感を持って、ひとりで黙々と研究を続けているのは、自分がウィルスに象徴される罪深い人類を救う者だと信じている、または思い込んでいるからである。

長い間、相棒のサムはいたけれど、人間は自分ひとりでずっと夜はダーク・シーカーズ襲撃の恐怖に耐えて生き延びてきたロバート。

ウィルスの発生源のNYにいた科学者で軍人の彼は、ウィルスに免疫がある自分が生き残った意味を探し求めていた。

そんななかで、自分がウィルスに対して免疫がある意味を模索しつづけていた。そしてたどりついた「使命」――。

自分には「使命」がある。そう思わずにはとてもひとりでは生きていけない。いわば、自分の存在理由と生きる意味を「使命」という形に昇華した。

または「使命」に取り込まれたとでもいおうか、強い自己暗示に近いような状態にロバートはなっていたのかもしれない。


■ 相棒を失う

ロバートには相棒がいる。サムだ。

サムの正式名はサマンサ。男じゃなく、たぶん女の子なのかもしれない。

そんなサムもウィルスに空気感染はしないが、噛まれて感染してしまう。すると主人のロバートに襲い掛かろうと豹変してしまうのだ。

さて、人類を救うために地上に遣わされたイエスは、たったひとりでその使命を果たさなければならなかった。とはいえイエスには12人の弟子がいた。

しかし、弟子たちのリーダー格のペテロ(ペトロ)でさえ、死の恐怖からイエスのことを知らないと言ってしまった。

それは、弟子ユダの裏切りによってゲッセマネの園で捕らわれたイエスが心配でたまらないペテロは、捕らわれているところ(大祭司カヤパの家)まで行き、中庭の真ん中にたかれた火にあたる人々のなかに紛れ込んで座っていたときのことである。

ある女中が、この人もイエスと一緒にいた、と言う。ペテロはそれを打ち消して、わたしはその人を知らない、と言った。

その後、同じようなことがもう2回あり、3回目も知らないとペテロが言い終わらないうちに鶏が鳴いた。

実は、事前にペテロはイエスにこう言われていたのだ。「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」――と。

ペテロはこの言葉を思い出して、外へ出て激しく泣いた。

悪(の象徴)のウィルスや死の恐怖にとらわれた生き物は、裏切りの行動をとってしまう。たとえそれが犬の相棒だろうと、弟子であろうと――。それほど人間とは弱いものであることを教えてくれる。

相棒のサムがウィルスに感染して豹変していく。それでもロバートは使命を果たすためにひとりになっても研究を続けていかなくてはならない様は、弟子のユダの裏切りによってゲッセマネの園以降に弟子たちから離れ、ひとりで十字架にかからなくてはならくなったイエスを連想させもする。

ちなみにサマンサがメス犬だとすると、人間では女性ということになる。

ある説によると、イエスの最も身近にいた人物はペテロでもヨハネでもなく、マグダラのマリアだったいう。

彼女は聖書に登場する女性でり、諸説あるが中にはイエスの妻だったのではないかという声もある。

実は、聖書において女性は重要な場面にしばしば登場する。

そのあたりを題材にした有名な作品が「ダ・ヴィンチ・コード」だったのは比較的記憶に新しい。


■ 誘惑

田舎の村に生存者が集まって生活しているかもしれないから一緒に行こうと誘われたロバートは、人類はほかにだれも生き残っていないと言ってNYを離れようとしない。

夜はダーク・シーカーズの襲撃に備えて恐怖の中でNYでひとりでいるより、田舎へ行って生き残りの人々と一緒に暮らしたほうが安全で安心できるにちがいない。だれだってそう思うだろう。

NYにひとりで居続けるより、田舎へ行って生き残りの人々と生活したほうが楽に違いない。

なんとも甘い誘惑であろう。誘惑という言い方は適切ではないかもしれない。

しかし、罪深い人類を救うという使命からしてみれば、その使命から逃れる甘い誘惑ということになる。

新約聖書にはイエスが荒野で40日間断食されたエピソードが登場する。

空腹のときにサタン(悪魔)が現れ、神の子なら石をパンに変えて食べればいいと誘惑する。

それにたいしてイエスは、人はパンだけで生きるものではない、と言ってサタンを退けた。

聖書には「滅びに至る門は大きく、その道は広い」とあることからも、楽な道への誘惑に打ち勝つことは人間にはたいへん難しいことを教えてくれる。

田舎に行って生き残りの人々と生活したほうがどんなに楽だろう。ロバートだって普通ならならそうしたいと思ったハズだ。

しかし、自分には使命がある。それを成し遂げるには、楽(に思える)な道を選択することはできないのである。

だからロバートは頑なにNYにとどまって研究を続けようとするのだ。


■ その他

聖書には「3」という数字がよく登場します。

イエス誕生を祝いにかけつけた3人の博士。

十字架にかかって3日目によみがえったイエス。

「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」

ヨハネの黙示録3天使の使命(週末・世の終わりについての預言)

数字に注目して映画を観て「3」や「7」という数字がちりばめられていたら、キリスト教となにかしらの関連のあるバッググラウンドを持ったストーリーなのかもしれないな、思ってみるのもいいでしょう。新しい発見があるかもしれませんヨ。

「アイ・アム・レジェンド」は題名からしてもそうだし、内容にしてもストレートすぎるぐらいにキリスト教のテーマや題材を使っているので、ちょっとヒネリがないといえるかも。

ヒネリがないとは、主人公ロバートの最期に象徴されていますね。

自分が犠牲になることで人類を救う伝説となった。

イエスになぞらえたそのままの最期をロバートが迎えるからです。

なんというか「アイ・アム・レジェンド」はちょっと気恥ずかしくなるようなストレートでそのまんまな作りでありました。


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