![]() | ヴィレッジ [DVD] M.ナイト・シャマラン M.ナイト・シャマラン ポニーキャニオン 2005-04-22 by G-Tools |
M・ナイト・シャマラン監督作品は日本では特に賛否両論あります。
その要因となっているものひとつは、映画作品に聖書のエピソードを取り入れることにあります。
物語のテーマを伝えるために使うキーワードに聖書の基礎知識をある程度必要とするものを採用するため、その予備知識がじゅうぶんでなければ、わかりにくく感じてしまう。
これが「否」の原因です。
どんな映画作品も、まずは興味を持ってもらうことが必要ですから、磨けば光りそうな原石をちりばめながら、しっかり磨いて目立たせなければなりません。
原石の配置とその磨き方が上手であればあるほど、人々の期待は高まります。
期待するとは、こんな話かなぁと想像して楽しみにすること。そんな想像はときに、妄想ともいわれます。
内容がベールに包まれていればいるほど、期待という名の妄想は激しさを増します。
実際に映画作品を観るときいは、妄想によってある程度出来上がったイメージが存在します。
想像力が豊かな人ほど、そのイメージと違ったり、イメージを損なったりする、がっかりします。
M・ナイト・シャマラン監督作品におけるこの種の「がっかり度数」は、日本では特に高まります。
なぜなら「妄想という名の期待の道」を外れて迷子にならないよう、監督があらかじめ予告編等でわかりやすく提供してくれるキーワードを、それと意識することが、日本人には比較的むずかしいからです。
ここでいうキーワードとは、聖書のエピソードのことです。
つまりこれが、M・ナイト・シャマラン監督作品が日本で賛否両論ある主な理由のうちのひとつなのです。
では映画「ヴィレッジ」を例に、この理由を具体的に解説していきましょう。
●家に赤いマークを付ける
●腐敗した都市と、素朴な農村
●村の掟(森に入ってはならない)
●人名「ノア・パーシー」
以上4つのキーワードにはそれぞれ聖書のエピソードが関係しています。
聖書のどのエピソードかという見当がつけば、映画作品のテーマや狙いがなんなのかについて想像力を働かせることができきるでしょう。
そうすれば「とんでもない妄想の世界」へ迷い込んでしまうことはありません。
それどころか、丁寧に提示されたキーワードの数々を元に内容を想像して期待を膨らませ、自分がイメージしたものと、作品が意図したであろうものとの違いを楽しむことができたなら、映画を観て後に「おもしろかった!」という感想を持つことができるでしょう。
では、次にキーワードがそれぞれ聖書のどんなエピソードを指し示していると考えられるかをみていきましょう。
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「ヴィレッジ(THE VILLAGE)」
M・ナイト・シャマラン監督/アメリカ/2004年
≪Story(ストーリー)≫
深い森に囲まれた外界から隔絶した村。森に生息する「彼ら」との和解によって村の人々は永遠の平和を手に入れた。しかし、和解はある日突然に破り去られる。
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■「赤いマーク〜過越し〜(出エジプト記第12章)」
聖書にはよく「過ぎ越しの祭り」という記述があります。
これは旧約聖書だけでなく、新約聖書のなかの、イエス・キリストの生涯を主に記した四福音書の記述にもよく登場するもので、イスラエルの民にとって重要な祭りのひとつのことをいいます。
では、いったいなにが「過ぎ越し」たのでしょう?
「死の使い」が過ぎ越していったのです。
「死の使い」がやってきても、子羊の血を家のかもいと柱にぬってあれば、そこを過ぎ越していったのです。
家のかもいと柱に子羊の血がぬっていない家には「死の使い」が入り込み、その家の長男は死に至らしめられました。
これは、旧約聖書の出エジプト記にあるエジプトを襲った「10の災い」の最後の災いです。
「10の災い」の背景をお話しましょう。
イスラエルの民がエジプトで重労働に従事させられていたとき、民を救うようにとの神の声をきいたモーセは、エジプトの王にイスラエルの民を手放すよう説得しますが、聞き入れられません。
そこで神はエジプトに10の災いをもたらします。その10番目の災いが「死の天使」によってもたらされる「初子の死」でした。
これによってさすがのエジプト王もイスラエルの民が出て行くことを承認。
こうしてイスラエルの民は、約束の地カナンをめざし、モーセに率いられてエジプトを出発することになりました。
それ以来、エジプトじゅうの長男が死んでしまうというときに神のお守りがあったことを決して忘れずに感謝する祭をするようになります。これが「過ぎ越しの祭り」です。
■「都市と農村〜ソドムとゴモラ、ロトの救出〜(創世記第19章)」
まず村の様子が、具体的には映画「刑事ジョン・ブック/目撃者」に登場するアーミッシュ(Amish)というキリスト教の一派を思い起こさせますね。
アーミッシュの人々は、穏和な人々がお互いに助け合いながら農村で共同体を営んでいます。彼らは平和主義者で、電気、水道、自動車などを使わない、大地に根ざした生活をしています。
どこかしら「ヴィレッジ」における村に似ていないでしょうか。
そして「ヴィレッジ」の村と対比される都市は、旧約聖書のなかで堕落した街として登場するソドムとゴモラを連想させます。
「ヴィレッジ」の住人たちは、ソドムとゴモラのような都市を離れ、森の中に村を作り、アーミッシュのような生活をしているのです。
■「誘惑の木の実と楽園からの追放〜アダムとイヴ〜(創世記第3章)」
村には口に出してはならない存在(Those We Don't Speak Of)がいるとされます。それは村を取り囲む森に住む「彼ら」のことを指します。
「彼ら」のことを口に出してはならない。
それは村の「禁忌」です。つまり、村には「掟」があるのです。
旧約聖書に登場するエデンの園にも「掟」があります。
誘惑の木の実を取って食べてはならない。
それは神との約束です。約束を守ればアダムもイヴもエデンの園を追放されることはなかったでしょう。
さて、蛇に姿を変えたサタンは、エデンの園の誘惑の木の上からイヴに何と言って誘惑したでしょうか。
この木の実をたべれば神のようになんでも知るようになる、と誘惑しました。
「ヴィレッジ」の若者をはじめとする第二世代の住人たちは、村の外に興味を持ちます。
若者たちは、村の外にいけば、村にはないさまざまなことを知ることができると考えます。
けれども村には「森に入ってはいけない」という掟があります。しかし、森に入らなければ村を抜け出せません。
森に入れば村の外に出ることができる。村の外の世界を知ることができる。でも、森に入ってはいけないという掟があるのです。
こういった設定が「誘惑の木の実と楽園からの追放」を思い起こさせるのです。
■「ノア・パーシー」という名前。
「ノア・パーシー」。
これはそのまま「ノアの箱舟」(旧約聖書創世記第6章〜8章)」のノアから取った名前だと考えられます。
腐敗・堕落した人間が溢れる世界に洪水を起こして何もかも滅ぼしてしまおうと計画された神は、正しい行いをする男・ノアとその家族だけは守ることにして、洪水でも壊れない箱舟の作り方をノアに詳しく教えました。
その教えどおりに、水辺から遠く離れた場所で箱舟をつくりはじめたノアは、周囲の人々から、水がないところに舟を作っているおかしな奴だとからかわれます。
「ヴィレッジ」の作品内でも、都市を離れて森に囲まれた村に移り住んだ人たちは、都市生活を続ける多くの人たちの目には「おかしな奴等」に映ったことでしょう。
しかしその「おかしな奴等」にさえ変わり者(?)とみなされている男がいます。
子供の純粋無垢な心を持つ青年・ノア・パーシーです。彼こそ「ヴィレッジ」の象徴であり、物語のキーパーソンなのです。
皆から変わり者呼ばわりされていたノアが大洪水から家族と動物たちを救う働きをしたように「ヴィレッジ」の変わり者ノア・パーシーも村人を救う働きをすることができるのでしょうか?
それは映画を観てのおたのしみにとっておきましょう。





