2009年12月07日

「ブラインドネス」の謎を解く〜なぜ医者の妻だけ目が見えるのか?〜

「ブラインドネス(Blindness)」は謎だらけだと感じる方がけっこういらっしゃるようですので、もう少し補足しておきましょう。

こちらを未読の方は一読してからどうぞ。
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▼「ブラインドネス」大解説〜「私には見えなくなる」の意味〜



■なぜ医者の妻だけ目が見えるのか?


この、謎におもえる部分が謎でなくなれば、きっと「ブラインドネス」の凄さを実感しやすくなると思いますので、さっそく解説しますね。


ズバリ、医者の妻はイエス・キリストを象徴するキャラクターだからです。


もちろん、象徴するキャラクターというだけで、イエス・キリストそのものというキャラクターではありません。


それはまずはさておき、聖書によると地上の人間はみな罪深き者です。真理をみようとせず、みんな好き勝手をしています。


そんな罪深き人間が住む地上に、これまで一度だけ罪なき者がいました。それが、天から遣わされたイエス・キリストです。


イエスだけは見えています。すべてが見えているです。だから、イエスを象徴するキャラクターの医者の妻は唯一、目が見えるのです。


医者の妻は愛する夫の目が見えなくなったとき、それが伝染するとわかっても傍を離れませんでした。自分も見えないフリをして夫と共に収容所に隔離されます。


収容所では夫を献身的に支えるのですが、裏切られます。夫が他の女と体の関係を持ったのです。


一切を捨てて愛する人にすべてをささげて、隔離される必要ない自分が目が見えないフリまでして収容所に入ったのに、裏切られたのです。


しかも、収容所内で目が見えるのは医者の妻だけです。ということは、医者の妻は夫の浮気現場もバッチリ見たのです。


夫もその浮気相手も目が見えませんから、どこか人目のつかない場所をみつけることはできません。狭い収容所内です。どこでなにをしても医者の妻には見られるだろうことはわかっていたはずです。それでも浮気しました。


そんな夫の裏切り行為を、医者の妻は見ていたのです。


医者の妻が見るのは夫の浮気現場だけではありません。収容所の人々の生き様も見ます。


散らかった室内、汚物にまみれたトイレとその付近、そしてエゴと暴力が支配する光景を見ます。


「ブラインドネス」を観た観客の感想に「収容所内の様子には目を背けたくなる。こんな気持ち悪いシーンばっかりの映画は見ないほうがいい」みたいなものもあります。


たしかに目を背けたくなるシーンが続きます。ではなぜ目を背けたくなるのでしょうか。


収容所の生活環境が劣悪で、酷く醜い人間のエゴと暴力が渦巻いているからと答えるでしょう。


そんなものは見たくない。それでもその場に居続けて見なければならない人がいます。見えることの辛さに加え、すべてを捨ててどんなに助けの手を差し伸べて世話しても裏切られてしまうやるせなさ。


医者の妻は裏切られても目を背けたくなる光景を見続け、共にその場で生活し続けます。孤独と苦悩にひとりで立ち向かわなければなりません。


これは、まさに人類の罪の身代わりになるために天から地上に遣わされたイエス・キリストの立場ではないでしょうか。


イエスには12人の弟子がいましたが、ゲッセマネの園ではひとりで神に祈り、苦悩しておられました。


また父なる神は人類を救おうと、子なるイエスを地上に遣わしました。(「三位一体」についての説明は省きます)


神は人類に何度も裏切られ、目を背けたくなるような悪行の数々を目の当たりにしても見捨てることなく、手を差し伸べ続けています。


それでも人類はまるで盲目のように、差し伸ばされた手を見ることができません。


ここまで説明すれば、どうして医者の妻だけ目が見えるのか? はもう謎ではなくなったことでしょう。


罪のないイエス・キリスト=神はすべて見えている。だからイエス・キリストを象徴するキャラクターの医者の妻だけは目が見えるのです。


収容所で第三病棟の王が医者の妻にむかって「おまえの声を覚えたぞ」と脅すシーンがあります。すると医者の妻は「私はあなたの顔を覚えたわ」みたいなことを言います。


見えるわけないと思っている第三病棟の王はそれを強がりだと受け取ってあざ笑いますが、医者の妻の妻のこのセリフは、イエス・キリスト=神はいつでもわたしたちを見ていることを表現したものでしょう。


このように、医者の妻の境遇と行動はすべて、なぜ医者の妻だけ目が見えるのか理由を如実に表しているのです。



■なぜ医者の妻は第三病棟の王を殺害したのか?


医者の妻はそれまでどんなに悲惨な状況になろうとも、持てる圧倒的な力を殺人に使おうとはしませんでした。


観客の多くは「はやく銃を奪って第三病棟の王を撃ち殺せ!」と思うことでしょう。


お気づきかもしれませんが、収容所という世界で殺人ができるのは医者の妻だけです。


目が見えなくても声や匂いを頼りに相手をある程度特定することは可能ですが、目で見て相手を確実に確認してその相手だけに危害を加えることができるのは医者の妻だけです。


圧倒的な力を持った医者の妻はその気になればいつでも第三病棟の王を殺害できます。それなのに自らの体を第三病棟の王に差し出すまでします。


いつでも殺せるのですから、もしも殺したいと思っているなら自らの体を差し出しはしないはずです。


つまり、医者の妻は第三病棟の王さえも救おうとしていたのです。

「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」(マタイによる福音書第5章44節)


ところが結局は、医者の妻は第三病棟の王をハサミで刺し殺します。


ここが矛盾すると感じるかもしれませんが、聖書はふたつの顔を持っているといわれることからヒントを探ってみましょう。


新約聖書の神も旧約聖書の神も同じ神ですが、新約聖書の神は「愛と赦しの神」で、旧約聖書の神は「裁きの神」であると解釈されることがあります。


これをふまえると、第三病棟の王にはいよいよ裁きが下さったともみてとれます。


その裁きを刺殺という形で行ったのは医者の妻です。収容所内でただひとり「力」を持つ彼女は、それを使った殺人という罪(sin)を背負うことになりました。


第三病棟の王の殺害を機に、収容所は火災に見舞われて医者の妻は外に出ます。


このとき、自分にしか背負えない罪の重荷を負った医者の妻はその購いの意味でも、自分が差し出す手をつかんでくれた人たちを、たとえかつて裏切られた過去があろうとも、必ず守り抜くと決意したのです。



■なぜスーパーマーケットで医者の妻は、食料を欲する人々に自分が持っている食べ物を分けてやらないのか?


収容所を出た医者の妻が見た街の様子はどうだったでしょう。


目が見えない人々が手探りでヨロヨロと動きまわり、死体が転がる街中でところかまわず物や食料を奪い合う光景が広がっていました。


それはまるでゾンビ映画でよく観るワンシーンのようです。ゾンビは生者をみつけると襲い掛かってその血肉をむさぼり食います。


ということは収容所の外の街でさまよう人々は、盲目であるかのように神の差し伸べる手をみようともしない罪深い人々を表しています。


まるでゾンビのように血肉という欲望を満たそうと徘徊する人々は、霊的(宗教的な意味)に死人です。


つまり食料はこの世の富と名声といった罪の象徴であり、それにゾンビのように群がる盲目の人々の姿がスーパーマーケットでのシーンなのです。


そして医者の妻が持っているのはただの食料ではありません。彼女が運んでくる食べ物は「いのちのことば(糧)」の象徴です。

「イエスは答えて言われた、『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである』と書いてある。」(マタイによる福音書第4章4節)


収容所から出た医者の妻は自分に付いてきた者たち(7人)に、みんな離れないでね、と言います。


ゾンビのように徘徊する罪深き者たちにとっては食料が己の欲を満たすものの象徴であっても、医者の妻(イエス・キリスト)に離れずに歩む者たちにとって、彼女が持ってくる食料はただのパンではなく「いのちのことば(糧)」なのです。


だから医者の妻は「いのちのことば(糧)」を、それを待っている者たちのために守ろうとしたのです。


ちなみに、人間から見たゾンビの様相は、神から見た人間の姿なのかもしれませんね。



■黒い眼帯の老人は何者なのか?


これは多くの人々にとっては謎ではないかもしれません。


でも私は興味深くこの老人をみないではいられません。


ストーリーづくりの役割という意味では、この老人はサポーティングキャラクターです。


眼帯をすることで善も悪もみてきたこの老人は、物語のラストで、視力を取り戻せる希望で喜び合う人々から少し離れてひとりで静かに座っています。


老人は視力を失った今のほうが幸せだと感じていたからです。


見えなくなったことで得られた、絆で結ばれた共同体の一員になれた幸せを失ってしまうかもしれないおそれを、医者の妻だけでなくこの老人もまた感じていたのです。


だから老人には医者の妻の気持ちやおそれが手にとるようにわかる。そのため、ラストのナレーションはこの老人の声だろうと推測できるのです。


そして医者の妻の気持ちやおそれを観客に知らせるサポートの役割を持つ一方で、宗教的なキャラクターをこの老人が担っているとも考えられます。


黒い眼帯の老人は目が見えなくなる伝染病がまん延する以前から眼帯をしています。なぜ片方の目が眼帯で覆われているのでしょうか。


それはおそらく、悪に満ちたこの世を両目ではとても直視できなかったからではないでしょうか。


天の住人にとって地上は、直視できないほど醜い世界であるはずです。


それでもイエス・キリストを象徴するキャラクターの医者の妻は両目が見えています。というか両目で見ています。


でも黒い眼帯の老人は半分しか見ていないのではないでしょうか。


つまり収容所でも老人は「片方は見えていたのではないか」と思うのです。


たとえひと時でも、持っていたラジオで安らぎの時間と空間を提供した黒い眼帯の老人は、収容所でも収容所から脱出した後もずっと医者の妻と行動を共にします。


そしてたどり着いた医者の妻の家では、今のほうが幸せだ、と言います。


以上のことから、黒い眼帯の老人は天使を象徴するキャラクターだと推測できます。


天使は天と地を行き来します。地上の醜い光景を直視するのが辛い天使は長く地上にいるときは片目だけでも見ないように眼帯をしていた……。


そして地上に遣わされたイエス・キリスト(医者の妻)を陰ながら見守っていた。


このように黒い眼帯の老人が天使を象徴するキャラクターであるならば、ラストシーンのナレーションが活きてきます。


そもそもナレーションはたいてい「神の視点」でなされます。とはいえ「ブラインドネス」での神=イエス・キリストを象徴するキャラクターは医者の妻です。

するとラストシーンのナレーションは医者の妻の視点で行われることになるはずです。でも、そうではありません。医者の妻の視点ではなく、ナレーションは第三者の視点でなされます。

しかのこのナレーションの主は希望に沸く人々の気持ちも医者の妻の気持ちもわかっています。この条件に合うナレーションの主は、部屋の隅のソファに腰掛けてその様子を静かに見つめている黒い眼帯の老人に他ならないとおもうのです。


そしてこの老人が天使を象徴するキャラクターなら、本来第三者の神の視点でなされるナレーションを行っても不自然ではありませんし、医者の妻がイエス・キリスト=神を象徴するキャラクターである以上、彼のほかにナレーションで語れる者はいないのです。


たとえ片目であっても、すべてを傍らで見てきた黒い眼帯の老人だからこそできるナレーション。そして彼でなければできないナレーション。


だからラストシーンのナレーションは「これぞナレーション!」という見事なナレーションなのです。


黒い眼帯の老人についてはちょっと深読みしすぎかもしれませんが、解釈としてはおもしろく……ないですか?(^_^;)



■なぜ「ブラインドネス」の評価はかなりばらつくのか
 〜作品のテーマは「おそれ」〜



作品のラスト。最初に失明した男が視力を取り戻したことを知り、喜び合う人たち。


このシーンを観て、希望と救いに胸躍らせるハッピーエンドだととらえる観客がいるでしょう。


でもそこには、希望に溢れる人々と対比させることで、より一層「おそれ」が強調されます。


医者の妻は「私には見えなくなる」と思った、その意味は視力のことではなく、わたしには「生きるべき道=指針=使命=真理」がみえなくなるとおそれたのです。


医者の妻が感じた「おそれ」は「畏れ」です。


「畏れ」は、神仏などを人為の及ばないものとして敬って身をつつしむ、という意味です。


医者の妻が感じた「畏れ」こそ、もっとも「救い」に近いものです。


逆にもっとも救いから遠いのは、皆が視力を取り戻して「畏れ」とは程遠い元の生き方に戻ってしまうことです。


ですから最初に失明した男が視力を取り戻したことは希望ではなく絶望を暗示し、ひとり(いや黒い眼帯の老人とふくめて二人かな)「畏れ」を感じる医者の妻は絶望ではなく希望を暗示しているのです。


この一見すると逆に見えるラストのシーンが、これまたほんとうにこの作品が見えているか? という作者の問いかけのような気がするのです。


ラストシーンのとらえ方によってまったく逆の印象を受ける。だからこの作品は観る人によってさまざまな感想を抱かせるのです。



■最後にもう一度「ブラインドネス」の大事な話をしましょう。


唯一目が見える医者の妻(ジュリアン・ムーア)は、なぜ第三病棟の王の銃を奪うなり、文字通り闇討ちするなりして食糧を奪わないのか?


これについてさらに付け加えておきます。


そもそもこのような疑問が浮かぶこと自体が「ブラインドネス」という作品の狙いのひとつだと考えられます。


イエス・キリストが「ろば」に乗ってエルサレムにやってきたとき、多くの人々はしゅろの枝を手に取り、自分たちの上着を道に敷いて「イスラエルの王に祝福あれ」と大歓迎しました。


ではなぜ大歓迎を受けたイエスは十字架に架けられることになったのでしょうか。


その要因のひとつは、歓迎した人々のなかにはイエスがイスラエルの王として軍事的な組織の長となって武力革命を起こしてくれることを期待していたのに、裏切られたたと感じる人がいたことです。


イエスがエルサレムにやってきたとき乗っていたのは「ろば」です。軍事用の馬ではりません。


そのことからもイエスが武力でなにかをしようとやってきたのではないことは明白です。それにもかかわらず、各地で奇跡を行ってきた元大工の屈強な男が子分を引き連れてやってきたと聞いただけで、その超人的な行い(奇跡)を「武力」に勝手に置き換えて期待してしまう人がいたのです。


収容所での医者の妻は目が見えているだけです。それは圧倒的な力を意味します。でもそれが強大な殺傷能力だと勝手に置き換えてしまうのはわたしたち観客です。


イエスは武力でイスラエルの王として君臨したでしょうか。


いいえ。自ら犠牲となることで人類を救ったのです。


医者の妻も自ら第三病棟の王に身を差し出し、殺人の罪を負ってまで自分から離れずにいてくれる人々を救ったのです。


唯一目が見える医者の妻(ジュリアン・ムーア)は、なぜ第三病棟の王の銃を奪うなり、文字通り闇討ちするなりして食糧を奪わないのか?


このような疑問がチラリとでも浮かんだあなたは「ブラインドネス」という映画を見ているようで「見ていない」のではないか。


そんなメッセージをガツーン! と突きつけられたような気がします。


そういう意味でもたいへん衝撃的で考えさせられる作品なのです。



■ひとりで観るクリスマス映画?


以上は私の解釈です。もっとわかりやすく的確な解釈ができる人はたくさんいるでしょうけれど、映画の解釈は観客の数だけありますから、これがアナタの「ブラインドネス」の解釈の助けになれば幸いです。


クリスマス。そのほんとうの意味におもいをはせるならこの時期に「ブラインドネス」をじっくり観てもいいかもしれませんね。


でもカップルでイチャイチャワイワイ観るような作品ではありませんよ。


そういえば日本で「ブラインドネス」が公開された時期はたしかクリスマスシーズンあたりでしたね☆


▼「ブラインドネス」大解説〜「私には見えなくなる」の意味〜


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